2024/12/28
令和6年ももうすぐ暮れる。
今年は元日の震災におののき、2日にも大きな事故、
幸先が思いやられてスタートした。
スポーツ界では大きな功績がいくつもあったものの、
暑くて長い夏が続き、政界の醜聞や著名人の訃報など、
こころ楽しめない出来事も多かった。
個人的にはボランティア的な活動が忙しく、
好きな山登りにもほとんど行けなかった。
せめて、せめて白銀の山の夜明けが見たいと思い、
快晴の朝まだき、暗いうちに家を飛び出した。
期待してたほどには赤く染まらなかったものの、
清澄な山々の姿を拝むことができた。

やれやれ今年もなんとか年を越せそうと安堵していたら、
親しい友人のお母さんが亡くなったとの連絡が入った。
これからの異常事態を告げるような令和6年の終わりに、
友人にとってはさらに切ない年の瀬となってしまったのだった。
あまり希望を持ちすぎたり、楽観視してもいけないのだけれど、
そうはせっても、来る年がいい年であることを祈りたい。

今年は元日の震災におののき、2日にも大きな事故、
幸先が思いやられてスタートした。
スポーツ界では大きな功績がいくつもあったものの、
暑くて長い夏が続き、政界の醜聞や著名人の訃報など、
こころ楽しめない出来事も多かった。
個人的にはボランティア的な活動が忙しく、
好きな山登りにもほとんど行けなかった。
せめて、せめて白銀の山の夜明けが見たいと思い、
快晴の朝まだき、暗いうちに家を飛び出した。
期待してたほどには赤く染まらなかったものの、
清澄な山々の姿を拝むことができた。

やれやれ今年もなんとか年を越せそうと安堵していたら、
親しい友人のお母さんが亡くなったとの連絡が入った。
これからの異常事態を告げるような令和6年の終わりに、
友人にとってはさらに切ない年の瀬となってしまったのだった。
あまり希望を持ちすぎたり、楽観視してもいけないのだけれど、
そうはせっても、来る年がいい年であることを祈りたい。

2024/12/20
正式には「西原温水ため池」というらしい。
長野市戸隠の「鏡池」のことだ。
戸隠地域の田んぼにひく水を温めるためのため池で、
昭和40年代の後半に造られた。
自分がその存在を知ったのは、昭和も終わり頃、60年代のこと。
当時はまだ戸隠村だった役場の人に教えてもらった。
村は観光地としてPRしていて、
長野五輪の頃には、かなり知れ渡っていたと思う。

写真は1998年、平成10年の12月に撮影した鏡池と戸隠連峰。
当時は写真を撮ることが面白くて、
冬の朝早く戸隠へ向かうなどという行動もしていたのであった。
道路の雪の状況などこれっぽっちも頭になく、
よく池のほとりについたものだと思う。

早朝は、神々しい風景に出会える絶好の機会を与えてくれるのだが、
今はもう、寒い朝家を出るなど、とっても億劫なことになっている。
長野市戸隠の「鏡池」のことだ。
戸隠地域の田んぼにひく水を温めるためのため池で、
昭和40年代の後半に造られた。
自分がその存在を知ったのは、昭和も終わり頃、60年代のこと。
当時はまだ戸隠村だった役場の人に教えてもらった。
村は観光地としてPRしていて、
長野五輪の頃には、かなり知れ渡っていたと思う。

写真は1998年、平成10年の12月に撮影した鏡池と戸隠連峰。
当時は写真を撮ることが面白くて、
冬の朝早く戸隠へ向かうなどという行動もしていたのであった。
道路の雪の状況などこれっぽっちも頭になく、
よく池のほとりについたものだと思う。

早朝は、神々しい風景に出会える絶好の機会を与えてくれるのだが、
今はもう、寒い朝家を出るなど、とっても億劫なことになっている。
2024/12/10
どうしてご焼香に行ったのかと聞かれれば、
新聞で訃報通知を見つけてしまったから、
としかいいようがない。
小学校1年から3年までの担任の先生である。
4年生に上がるときクラス替えがあり、担任が替わった。
それ以後の先生の消息については承知していない。
遺影との対面が、ほぼ50年ぶりであった。
自分は「ごたっ小僧」であった。
当然、先生からもさんざ怒られた。
どのような怒られ方をしたかを書くと、
今では物議を醸すことになるので詳細は述べられない。
自分は、学校であったことを親に話すような子ではなかった。
が、親は、我が子の授業態度について、うすうすわかっていたと思う。
なにせ、親からの怒られ方はそれ以上であったのだから。
子ども心にも、先生が不機嫌なときはなんとなく感じられた。
特に、先生が明るい色の背広を着てきたときは、ちょっと用心した、
そんな覚えがある。
50年という歳月を経て、もう印象はだいぶ薄くなってしまっている。
斎場に飾ってあった還暦と思われる写真からは、
かろうじて面影をしのぶことができたが、
それ以後に撮られた老後の笑顔からは、
怒鳴る顔を思い描くことはできなかった。
その節はお世話になりました、
というよりは大変お世話をかけました、
そう手を合わせるしかなかった。

新聞で訃報通知を見つけてしまったから、
としかいいようがない。
小学校1年から3年までの担任の先生である。
4年生に上がるときクラス替えがあり、担任が替わった。
それ以後の先生の消息については承知していない。
遺影との対面が、ほぼ50年ぶりであった。
自分は「ごたっ小僧」であった。
当然、先生からもさんざ怒られた。
どのような怒られ方をしたかを書くと、
今では物議を醸すことになるので詳細は述べられない。
自分は、学校であったことを親に話すような子ではなかった。
が、親は、我が子の授業態度について、うすうすわかっていたと思う。
なにせ、親からの怒られ方はそれ以上であったのだから。
子ども心にも、先生が不機嫌なときはなんとなく感じられた。
特に、先生が明るい色の背広を着てきたときは、ちょっと用心した、
そんな覚えがある。
50年という歳月を経て、もう印象はだいぶ薄くなってしまっている。
斎場に飾ってあった還暦と思われる写真からは、
かろうじて面影をしのぶことができたが、
それ以後に撮られた老後の笑顔からは、
怒鳴る顔を思い描くことはできなかった。
その節はお世話になりました、
というよりは大変お世話をかけました、
そう手を合わせるしかなかった。

2024/12/03
岩波ジュニア新書のロングセラー
茨木のり子の「詩のこころを読む」で最初に紹介されているのは、
谷川俊太郎さんの「かなしみ」という詩だ。
あの青い空の波の音が聞こえるあたりに
何かとんでもないおとし物を
僕はしてきてしまつたらしい
透明な過去の駅で
遺失物係の前に立つたら
僕は余計に悲しくなつてしまつた
第一連を読んだだけでも、
胸の奥をギュッとつかまれたような心持ちになってしまう。
実は、先般亡くなられた谷川さんの作品にそれほど親しんできたわけではなかった。
でも僕らの世代は、谷川さん作詞の「鉄腕アトム」の歌で馴染みがある。
空をこえて ラララ 星のかなた
ゆくぞアトム ジェットのかぎり
・・・
この歌詞、よくよく吟味すると少し変だ。
山や海なら越えられるが、空を越えるとはどういうことか。
「星のかなた」ではなく「宇宙のかなた」ではないのか。
しかし、そこが谷川さんのマジック。
僕らは何の違和感もなくこの歌を口ずさみ、
そして、アトムのように大空を飛びまわる気分になっていた。
そう、僕らは幼少の頃から、
谷川さんが紡ぎ出す言葉の魔術に取り込まれていたのだった。